高温超伝導体における擬ギャップ状態の物理:その起源、超伝導への影響、および実験的プローブによる解明
高温超伝導体の発見以来、その特異な物性とペアリング機構の解明は凝縮系物理学における最も重要な課題の一つであり続けています。特に、超伝導転移温度 ($T_c$) よりも高い温度領域で観測される「擬ギャップ状態」(pseudogap state)は、高温超伝導の物理を理解する上で避けて通れない、しかしながらその起源と役割が依然として議論の対象となっている現象です。リニアモーターカーに代表されるような応用は超伝導現象そのものに依拠していますが、擬ギャップ状態の研究は、超伝導が発現する「舞台裏」とも言える正常状態やその近傍の電子状態に焦点を当て、超伝導の発現機構そのものに迫る試みです。本記事では、大学研究者を主な読者層として、高温超伝導体における擬ギャップ状態の物理について、その特徴、提唱されている起源説、超伝導への影響、そしてそれを明らかにするための主要な実験手法について深く掘り下げて解説します。
擬ギャップ状態の物理的特徴
擬ギャップ状態は、主に銅酸化物高温超伝導体において、超伝導転移温度 $T_c$ 以上の温度領域で観測される、励起スペクトルにおけるエネルギーギャップ様の振る舞いを指します。通常の金属では、フェルミ準位における状態密度は連続的ですが、擬ギャップ状態では、フェルミ準位近傍で状態密度が抑制されたり、特定の波数でギャップが開いたような振る舞いが見られます。この「ギャップ」は、BCS理論における超伝導ギャップとは異なり、明確な相転移を伴わずに温度やドーピング量に対して連続的に変化することが特徴です。また、このギャップは運動量空間において異方性を持つことが、角度分解光電子分光 (ARPES) などの実験から明らかにされています。特に、高温超伝導体のフェルミ面における「ホットスポット」と呼ばれる領域(通常、ブリルアンゾーン境界近くの $(\pi, 0)$ 付近)でギャップが大きく開き、超伝導ギャップが最大となる「コールドスポット」(通常、ノード方向、つまり $(\pi/2, \pi/2)$ 方向)では擬ギャップが小さい、あるいはほとんど存在しないという運動量空間の異方性が報告されています。
擬ギャップ状態は、キャリア濃度(ドーピング量)によってその振る舞いが大きく変化します。アンダードープ領域(最適な $T_c$ よりもキャリア濃度が低い領域)で顕著に現れ、$T_c$ が高い最適なドーピング領域を通過して、オーバードープ領域(最適な $T_c$ よりもキャリア濃度が高い領域)に進むにつれて徐々に消失していく傾向があります。温度に関しても、$T_c$ よりも十分に高い温度 $T^$(擬ギャップ温度)まで存在し、$T^$ はアンダードープ側で高く、ドーピング量の増加とともに低下します。
擬ギャップ状態の起源に関する理論的視点
擬ギャップ状態の起源については、発見以来様々な理論モデルが提唱されており、いまだに統一的な見解には至っていません。主な説としては、以下のものが挙げられます。
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前駆ペアリング説(Preformed pair scenario): $T_c$ 以上の温度でも、クーパーペアに似た電子対が局所的に形成されているという考え方です。これらの局所的なペアが秩序立ったコヒーレンスを持つことで、超伝導が発現するというシナリオです。この説によれば、擬ギャップは局所的なペアリングによって生じた励起ギャップに対応します。この説を支持する証拠としては、比熱や磁化率に見られるBCS理論からの逸脱や、STM/STSで観測される不均一なギャップ構造などが挙げられることがあります。
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競合秩序相説(Competing order scenario): 擬ギャップ状態は、電荷密度波(CDW)、スピン密度波(SDW)、軌道秩序などの他の秩序相が超伝導と競合または共存することで生じるという考え方です。特に最近のX線散乱やNMRの実験から、擬ギャップ温度 $T^*$ 付近で短距離または長距離のCDW秩序が存在することが多くの高温超伝導体で報告されており、この説が有力視されるようになってきています。擬ギャップは、これらの競合する秩序によってフェルミ面の一部が開くことで生じると考えられます。
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量子臨界点近傍の揺らぎ説(Quantum criticality fluctuations): 高温超伝導体では、ドーピング量に対する相図において、反強磁性相や恐らくは他の秩序相(CDWなど)が量子臨界点を持つと考えられています。この量子臨界点近傍では、対応する秩序パラメータの強い量子揺らぎが存在し、この揺らぎが擬ギャップ状態や高い $T_c$ の原因となっているという説です。擬ギャップはこの量子揺らぎによって引き起こされる散乱によって生じると考えられます。
これらの説はそれぞれ異なる物理像を提示しており、擬ギャップ状態が単一の機構で説明できるのか、あるいは材料系やドーピング領域によって異なる起源を持つのかも、現在の研究における重要な論点です。
擬ギャップ状態が超伝導へ与える影響
擬ギャップ状態は、単に高温での正常状態の振る舞いであるだけでなく、超伝導状態そのものにも影響を与えていると考えられています。最も議論されているのは、$T_c$ の「抑制」です。もし擬ギャップが局所的なペアリングに対応するものであれば、それは $T_c$ の「前駆」現象として超伝導を準備するものと解釈できますが、同時にこの局所的なペアリングがコヒーレンスを持つことを妨げ、$T_c$ をバルクの超伝導ギャップが期待されるよりも低く抑えている可能性があります。
一方、競合秩序相説の立場からは、擬ギャップを生じさせる秩序(CDWなど)がフェルミ面の一部を「奪う」ことで、超伝導に寄与できる電子の状態密度を減少させ、$T_c$ を低下させると考えられます。実際に、外部磁場や圧力、さらには選択的な不純物導入などによって擬ギャップ状態を制御することで、$T_c$ が変化することが実験的に示されており、擬ギャップと超伝導の間の密接な関連性が示唆されています。
擬ギャップ状態が超伝導ペアリングの対称性(例えばd波対称性)やメカニズムそのものにどう関わっているのかも、依然として活発な研究テーマです。擬ギャップの運動量依存性が、超伝導ギャップの運動量依存性と類似していることから、両者が共通の物理的起源を持つ可能性も議論されています。
擬ギャップ状態を解明するための実験的アプローチ
擬ギャップ状態の複雑な性質を明らかにするためには、様々な実験手法を組み合わせた多角的なアプローチが必要です。主要な手法とその貢献を以下に示します。
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角度分解光電子分光 (ARPES): 電子の運動量とエネルギーを同時に測定することで、バンド構造やフェルミ面、そして運動量空間における励起ギャップの構造を直接的に観測できる最も強力な手法の一つです。ARPESによって、擬ギャップがフェルミ面上の特定領域(ホットスポット)に存在し、運動量空間で異方性を持つことが明らかになりました。また、温度やドーピング量に対するギャップ構造の変化を追跡することで、擬ギャップと超伝導ギャップの関係性を探る上で不可欠な情報を提供しています。
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走査型トンネル顕微鏡/分光 (STM/STS): 物質表面の原子スケールでの構造と電子状態をプローブできる手法です。STSによって、実空間における状態密度のスペクトルを測定することが可能であり、擬ギャップ状態が空間的に不均一であること、そしてその不均一性がドーピング量や特定の欠陥と関連していることが明らかにされています。また、量子渦芯における電子状態の観測などから、擬ギャップが局所的なペアリングに関連する可能性を示唆する報告もあります。
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X線散乱 (X-ray scattering): 特に最近の軟X線を用いた共鳴非弾性X線散乱 (RIXS) や硬X線を用いた弾性X線散乱の技術進展により、擬ギャップ温度近傍で観測される電荷密度波(CDW)秩序の詳細な性質(波数、相関長、温度・ドーピング依存性)が明らかになってきています。これは競合秩序相説を支持する重要な証拠となっています。
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核磁気共鳴 (NMR): 局所的なスピン環境をプローブする手法であり、擬ギャップ状態におけるスピン励起やスピン秩序の情報を得ることができます。NMRのナイトシフトやスピン格子緩和率の測定から、擬ギャップ温度以下でスピン励起スペクトルにギャップが開くことが観測されており、これは擬ギャップがスピン的な秩序や揺らぎと関連している可能性を示唆しています。
これらの手法以外にも、比熱、輸送特性(電気抵抗、ホール係数など)、ラマン散乱、中性子散乱など、様々な実験が擬ギャップ状態の物理を解明するために行われています。これらの実験結果を統合的に解釈することが、擬ギャップの真の姿と高温超伝導機構の全貌を理解する上で不可欠です。
まとめと今後の展望
高温超伝導体における擬ギャップ状態は、超伝導転移に先行して現れる複雑な電子状態であり、その起源と超伝導への影響は依然として活発な議論の的となっています。前駆ペアリング、競合秩序相、量子臨界点近傍の揺らぎといった様々な理論的視点があり、ARPES、STM/STS、X線散乱、NMRなどの多岐にわたる実験手法がその解明に貢献しています。特に、擬ギャップ温度近傍での電荷秩序の発見は、競合秩序相説に新たな光を当てました。
しかしながら、これらの異なる実験結果がどのように整合するのか、擬ギャップが単一の起源を持つのか、異なる起源を持つ複数の現象の重ね合わせなのか、そして擬ギャップが超伝導ペアリングそのものにどう関わっているのかなど、未解決の課題は山積しています。今後の研究では、より高精度な実験データ、特に非線形応答測定や超高速分光による非平衡状態の観測、そして理論モデルとのより緊密な連携が求められます。
擬ギャップ状態の完全な理解は、高温超伝導のペアリング機構を解明する上で極めて重要であるだけでなく、他の強相関電子系における様々な秩序状態や量子現象の理解にも繋がる可能性があります。これは、リニアモーターカーのような実用化された超伝導技術のさらに先にある、物質科学のフロンティアを切り拓くための基礎研究として、今後もその重要性を増していくと考えられます。